20171025

(リレーおぴにおん)肉食考:17 命をいただく、倫理学の難題 伊勢田哲治さん


2017年10月25日

多くの日本人は普段、何げなく肉を食べていると思います。でも、国際的には1990年代以降、食べられる側の動物の福祉や権利を考えようとする動きが急速に広がっています。

動物の肉を食べることを倫理的に正当化できるのでしょうか。簡単な問いではありません。倫理学理論はよほどの例外をのぞき、他者を傷つけてはならない=危害原理=を前提としています。人間を傷つけてはならない、ならば動物も同様である。倫理学の考え方に立てば肉食は問題視されるのです。

ホモ・サピエンスという種を特別扱いする理由として、18世紀のヨーロッパならば、神が自分の姿に似せてつくった特別な存在だからと聖書に書いてある、と言えた。しかし19世紀には進化論が受け入れられ、その後の研究でも他の哺乳類は人間と神経系の構造も近いことが分かり、痛みや苦しみを感じ、知性があることは否定できません。

人間と動物は種が違うから別扱いしてよいというのは人種差別、女性差別ならぬ、「種差別」であり、正当化できるものではない。この言葉は1975年に出版された「動物の解放」という本で倫理学者ピーター・シンガーによって使われ、反響を呼びました。人間社会の差別への異議申し立てと同じ論理の構造を示し、その後の動物の福祉や権利を訴える運動を後押ししました。

ただ、肉食が正当化できないとしても、肉食に関わる仕事についている人も多く、我々の生活から切り離せないものとなっています。すぐにみんなが菜食主義者になるというのは現実的ではありません。でも倫理的によりましな肉食はありえます。

フォアグラのように、食べる必要性は低いが大きな苦痛やストレスを与える疑いのある飼育法を要するものをやめるのは比較的難しくないでしょう。一方、畜産用動物の肉とジビエ(野生動物の肉)を比較すると、どちらがより倫理的かは一概には言えません。死ぬ瞬間の苦しみは、意識がほぼない状態で殺される畜産の方が少ない。でも、動物の一生を通して人間から与えられる苦しみを考えると、集約的畜産でずっと閉じ込められている方が大きいとも言える。

 私自身も良心に従って避けられるなら肉を避ける、という程度で菜食主義者ではない。ただ肉食を考えることは、私たちがどう生きるべきかを筋道立てて考える倫理の問題に直結していることは確かです。
(聞き手・高久潤)

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いせだてつじ 京都大学准教授 1968年生まれ。専攻は科学哲学、倫理学。01年、米メリーランド大で博士号取得。著書に「動物からの倫理学入門」「哲学思考トレーニング」など。

《朝日新聞社asahi.com 2017年10月25日より抜粋》

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