きめ細かい論議を ヒト細胞クローン
1999年11月25日
人の白血病細胞を、牛の核を除いた(除核)卵細胞へ移植する――東京農業大学の岩崎説雄教授がそんな実験をしたことについて、文部省の学術審議会クローン研究専門委員会は「文部省が告示した指針の三条と四条に抵触する」と結論づけた。しかし、委員会は結論を急ぐあまり、実験内容の審議に慎重さを欠いた嫌いがある。指針の運用面での問題点も浮かんだ。この問題の背景にある「体細胞クローン人間づくり」については、国の科学技術会議のもとにある生命倫理委員会クローン小委員会が「法律で規制する」という見解をまとめたが、より実現性の高いクローン技術の人への応用の是非については先送りされた。研究の実態に沿って、もっときめ細かな規制論議をする必要がある。
(田村建二=科学部)
○東農大の実験 「違反」断定に疑問も
「ヒトの体細胞(に)由来(する)核の除核卵細胞への核移植は行わない」。指針三条にあるこの文章を素直に読むと、体細胞も卵細胞もヒトととれる。卵細胞に「動物も含まれる」と考えるのは難しい。
文部省は「動物を含むことは指針の作成過程で論議した。生物学者ならそこまで解釈できたはずだ」という。しかし、発生学の専門家から「動物を含むとは思わなかった」と不備を指摘する声が出ている。指針の作成者らがまとめた報告書にも、「動物卵子」について言及はない。
●個体化の可能性なし
実験が明らかになった八日、岩崎教授は朝日新聞社の取材にこう答えた。
「がん化した血液細胞の核が、卵子に含まれる因子によって、ふつうの細胞と同様に『初期化』されるかどうかを調べたかった」
受精卵(胚(はい))は分割して増殖し、分化が進んで血液や筋肉など体の各組織になる。卵子には、分化した細胞を何にでもなりうる状態に戻す(初期化)因子がある。英国でクローン羊「ドリー」を作ったときも、羊の体細胞を除核卵子の中に入れ、核を初期化している。実験は白血病治療法開発への第一ステップだった。
この因子による初期化効果を知るには、核移植した胚が分割して成長する過程が、ふつうの胚の場合と変わらないことを確認すればいい。胚を子宮に入れる必要はなく、クローン個体ができる恐れもない。岩崎教授の実験もこの手順で進んだ。三条に違反する恐れがなければ、四条(大学等の長の確認を受ける)を考慮する必要もない。同教授はそう考えた。
研究者は「結果は学術論文で発表を」と考えがちだが、市民はクローン技術に漠然とした不安を抱いている。研究には競争の側面があり、リアルタイムですべての情報を公開するわけにはいかないが、社会の不安を解消するために最低限の情報公開は必要だ。
今回の問題では、指針の運営に携わる関係者らの不手際や慎重さを欠いた言動が相次いだ。
文部省の担当者は実験が明らかになった翌日になっても、実験がなぜ三条に抵触するのか、十分説明できなかった。厚生省は実験の目的を「細胞分化誘導による白血病の治療法の開発」と発表したが、目的は分化誘導というより「初期化」の方が適切だった。
東京農大の進士五十八(しんじいそや)学長は、大学として正式に事実関係の調査をする前に、記者会見で指針違反を認めてしまった。
さらに、別の記者会見で、指針作成に携わった専門委員の一人が条文を誤って説明した。三条に抵触したら研究はできないことになっているのに、「(研究が)全部ストップということはどこにも書いていない」と述べた。あとで発言を撤回したが、条文自体を理解していない委員が、条文に明記されていないことを根拠に指針違反を問うのは無理がある。
○規制の網 「受精卵技術」は先送り
科学技術会議クローン小委で、体細胞クローン人間づくりを法律で禁じることが決まり、早ければ来年の通常国会にも罰則つきの法案が上程される見通しだ。
しかし、人への応用技術として、成長した動物などの細胞を使う体細胞クローンより実現性が高い「受精卵クローン技術」の論議は先送りされた。
受精卵クローンは、受精後に増殖した細胞をばらばらにし、それを除核卵子に移植してつくる。畜産業界で普及しはじめており、この方法で国内で生まれた牛は約五百頭になる。
体外受精をしようとする女性で、卵子が採れにくい場合に有効な手段ともいわれる。ある不妊治療専門家は「技術は簡単だ。人で同様にやろうと思えば、いますぐにでもできる」という。
また、現在、発育した胚から取り出した細胞を培養して核移植し、クローン個体をつくる研究が、羊や豚などで進んでいる。
こうした技術を使ったヒトクローン個体づくりは認められるのか。課題は積み残されたままだ。
<岩崎教授が違反したとされた指針の該当部分>
【第3条】
ヒトのクローン個体の作製を目的とする研究またはヒトのクローン個体の作製をもたらすおそれのある研究は、行わないものとする。
2 前項の趣旨にかんがみ、ヒトの体細胞(受精卵、胚を含む)由来核の除核卵細胞への核移植は、研究においてこれを行わないものとする。
《朝日新聞 1999年11月25日より引用》