クローン どう使う科学技術(NIE 教育に新聞を) 【西部】
1998年02月25日
アダムのろっ骨からイブをつくったように、体の細胞から赤ちゃんをつくることができるかも知れない。世界をあっと言わせた体細胞クローン羊・ドリーの誕生のニュースから一年。SFでしかなかった物語が、現実味を帯びてきた。しかし、クローン人間づくりを各国がこぞって禁じている。ドリーの誕生は、進展する科学技術をどう使うかという、近い将来みんなが出あう課題を抱えている。クローンをテーマに今から考えてみよう。
(構成=社会部・小西宏)
○人間にも応用するの? 専門家に聞きました
《テレビのプロデューサーが視聴率アップを狙ってクローン人間狩りを思いつく。しかし、自分の指の細胞でクローン人間をつくられて標的になり、逃げる途中で知り合った幼女と北海道へ。十五年後、彼は自ら犠牲になってクローン人間工場を破壊。彼が本物かクローンかと、聞かれた彼女は「とうさんは人間よ。それでいいじゃない」……》
故手塚治虫氏が一九八〇年に漫画「火の鳥・生命編」で描いたクローン人間の物語だ。ほかにもクローンを題材にした小説や映画、漫画は数多い。ヒトラーのクローンが登場する話もある。
クローン羊・ドリーの誕生はクローン人間が空想の産物の段階を超え始めたことを示唆している。米国や南アフリカからは、不妊治療のためにクローン人間づくりを考えている医師がいるという報道もある。
ドリーを誕生させた英国の研究者は、英議会の委員会で人間に応用できるかと問われ、技術的には可能だろうと述べている。体細胞クローン牛の妊娠に成功した農水省畜産試験場の今井裕・生殖工学研究室長も「可能性は強い」という。
ともに人間への応用は否定する。今井さんは「核分裂を発見した科学者もそれが原爆となって実際に使われるとは考えていなかったと思う。社会とのかかわりの中で科学者自身も考えなければいけない」と話す。
ドリーの誕生以後、この技術を人間に応用することを各国はこぞって禁止した。
欧米の生殖医療政策に詳しい三菱化学生命科学研究所のぬで島^(ぬでしま)次郎さんによると、英国やドイツは法律で禁止。フランスは法解釈で禁じた。米国ではクリントン大統領が連邦予算で助成しない声明を出した。
理由は、フランスなどは「人間には一人ひとり特異性、自律性がある。無性性殖のクローンは人間の尊厳に反する」。米国は、安全上の問題に加えて、「神の与えた個性、聖なる家族のきずなを脅かす」としている。
日本でも、首相の諮問機関、科学技術会議が倫理面から禁止を打ち出し、同会議の生命倫理委員会はクローン小委員会を設けて法規制の妥当性を論議する。文相の諮問機関の学術審議会バイオサイエンス部会もクローン人間につながる人の細胞の研究を禁止する中間報告を出した。
一方で、「クローン人間をつくっても人格の侵害にあたらない」と加藤尚武・京都大教授(倫理学)は話す。遺伝子が等しくても全く同じ個人ではない。時間差のある一卵性双生児と考えれば分かりやすい。性格や脳に記入される経験まで同じことはありえない。
しかし、加藤教授は「安全性が確立されていないから禁止するのはかなっている」。遺伝子と体の状態の関係はまだ分からないことが多く、「安全性を人間で確認するのは永久に無理だろう」という。
○SFが現実味、各国では禁止
クローン人間づくりは禁止されても、受精卵で研究することは可能だろうか。
米国は、細胞での研究は禁じていない。人間も元は一個の受精卵から発生している。マウスなどで、受精卵がどのようにして様々な臓器や組織に分かれていくかを研究するのは盛んだ。このなぞが解きほぐされると、自分の体細胞から細胞や臓器をつくり、病気になった部分を補うことも夢でなくなる。
フランスとドイツは人間の受精卵を実験に使うことは禁止。英国は受精後十四日以内の使用を認めているが、行政の認可が必要だ。国内では日本産科婦人科学会が十四日以内で夫婦の同意を得た場合に使ってもよいと見解を示しているが、国レベルでの規制はない。だれがどんな研究に使っているか実態は不明だ。
ぬで島さんは「動物や人間を対象にした実験研究の包括的な管理体制をまずつくるべきだ。その上で、国として対処しなければならない課題をリストアップし、どこまで進めるのか、どれを禁止するのかを整理して個別に論議することが必要だ」と指摘している。
◇「クローン」ってなんだろう
○体細胞使えばオスは不要に 挿し木も同じ原理
クローンは、遺伝子の全く同じ細胞または個体の複製のことを言う。例えば植物の挿し木。枝を切った植物と挿し木した植物の遺伝情報は同じだ。その意味では、一卵性双生児もクローンといえる。
畜産ではすでにクローン技術が使われている。受精卵が十六個から六十四個に分かれた段階で一個ずつばらばらにする。それぞれをあらかじめ、遺伝子の入った核を取り除いた卵子に融合させ、メス牛の子宮に移植する。
ほ乳類は普通、生殖行為による精子と卵子の受精で子供が生まれる。生命の設計図である遺伝子は、精子と卵子の双方から受け継ぐ。だから子供は父親に似たり、母親に似たりする。しかし、子の遺伝子は父と同じでも、母と同じでもない。
一方、体細胞クローンは、精子は要らない。卵子は必要だが、遺伝子が入っている核をあらかじめ取り除くので卵子の遺伝情報も受け継がない。代わって卵子と融合させた体細胞の遺伝子を引き継ぐ=イラスト。
体細胞をとる成体はオス、メス問わない。メスだと、自分の体細胞と卵子を使い、自らが自分の分身を産むことも可能だ。
体細胞を培養してそのまま個体をつくるのは無理だが、体細胞クローンは、セックスを必要としないだけでなく、オスが要らない生殖技術なのだ。
○牛使う研究は国内でも
久住高原にある大分県畜産試験場バイオ研究棟裏のパドックに黒いメス牛三頭がさくにつながれていた。まだ雪が残る今月初め、風は身を切るように冷たい。
三頭は、体細胞クローン牛を妊娠した代理母。ドリー誕生のニュースに、「牛でも可能だろう」と考えた志賀一穂・肉用牛飼養部副部長(五一)らが昨夏、国の科学技術会議が畜産のクローン研究を認めたのを受けて取り組んだ。
肉質が良い種牛二頭から背中の筋肉細胞を取って培養。あらかじめ核を取り除いた卵子と融合させた。これをさらに十日間ほど培養し、メス牛に移植した。
鹿児島県大隅町の県肉用牛改良研究所には体細胞クローン牛を妊娠したメス牛が七頭いる。窪田力・新技術開発研究室研究員(三二)が、茨城県茎崎町の農水省畜産試験場に出向いて共同研究。こちらは耳の細胞を使って成功させた。 順調にいけば、大分、鹿児島、農水省畜産試験場のどこかで、八月下旬から九月に「国内初の体細胞クローン牛」が生まれる。
○日本は家畜改良、欧米は動物工場
大分や鹿児島で進められる体細胞クローン研究の目的は家畜の改良だ。肉質の良い牛と同じ体質の肉牛をつくる。乳がたくさん出る乳牛を複製することも可能だ。体細胞の遺伝子に手を加えることはしない。
欧米では、動物の受精卵にヒトの遺伝子を組み込み、人間の病気の治療に役立つたんぱく質をつくる「動物工場」への動きが急だ。英国は、肺気腫などの治療用たんぱく質を羊で、米国でも血液の凝固を防ぐたんぱく質をヤギで、それぞれつくり、ともに臨床試験中。日本に導入する動きもある。
さらに英国では、血友病の治療に必要な血液凝固第九因子をつくるヒトの遺伝子を組み込んだ羊・ポリーも生まれている。
しかし、動物の受精卵にヒトの遺伝子を注入しても遺伝子が期待通りに働くかどうかは、一頭ずつ育ててみなければ分からない。
体細胞クローン技術を使うと、期待通りの成体一頭から複製をたくさんつくることが可能になる。
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<NIE> 「Newspaper In Education」(教育に新聞を)の略。新聞を生きた教材として活用する運動。このページでは、「脳死・臓器移植」(昨年11月12日付)、「ピル」(同12月12日付)、「高齢社会」(今年1月21日付)を特集しました。
【写真説明】
故手塚治虫氏が描いたクローン人間の物語の一コマ (C)手塚プロダクション=角川書店発行「火の鳥9宇宙・生命編」から
体細胞クローンを妊娠中のメス牛=大分県久住町で
《朝日新聞社asahi.com 1998年02月25日より抜粋》