自給率は政策目標になるか(社説)
1997年11月08日
二十一世紀の日本農業は、どんな姿が望ましいか。そのための政策は、どうあるべきか。新しい農業基本法をつくる論議が、首相の諮問機関である食料・農業・農村基本問題調査会で進められている。
食糧の安全保障、農畜産物の価格のあり方、農村地域の活性化策など、論点は多岐にわたる。第一次答申がまとめられる前に、ひとつ注文したい。
食糧自給率についてである。
「あるべき数値目標を政策として掲げ、もっと引き上げるべきだ」という声が農業団体から出ている。
日本の自給率は、一九九五年はカロリー換算で四二%だ。「これでは低過ぎて不安だ」という。総理府の世論調査でも「外国産より高値でも、国内でつくる方がよい」とする回答が八割を超えている。
安全で新鮮な食べ物は、なるべく国内で供給してほしいと願うのは、国民のおおかたの気持ちであろう。農家のがんばりに期待する「自給率の向上」に異論はない。 しかし、具体的な数値目標となると、話はそれほど簡単ではない。
自給率は、いうまでもなく需要と供給の動向で決まる。六五年には七三%あった自給率が、この三十年間に三一ポイントも下がった。分析してみると、その三分の二は食生活の変化を反映したものである。
自給できるお米を食べなくなった半面、海外の産物に頼らざるをえない肉や乳製品、食用油をたくさん食べるようになったためだ。飽食とまでいわれる「豊かな食生活」が自給率を下げたのである。
日本の自給率は、主要先進国では最低だ。とくに、七三%という高い自給率を維持している英国と比べて問題視される。しかし英国では、一人当たりの農地面積が日本の八倍もあるうえ、食生活にも大きな変化がみられなかった。
手っ取り早く自給率を上げようとするなら、輸入飼料に頼る肉や乳製品を食べないよう国民に求めることだ。
飽食を反省し、お米を中心とした伝統的な日本型食生活の勧めには、国民健康のうえからも意味があるかもしれない。
しかし実際に、国が消費者に肉を食べるな、などと強制できるはずもない。
カロリー換算に基づく自給率の引き上げを目標にすると、カロリーの低い野菜や果物の生産は軽視され、米やイモの生産を奨励するような非現実的な政策が正当化されかねない。畜産の振興は、飼料が輸入頼みだから自給率の向上につながらない。
日本が輸入している農産物を国内の生産に切り替えたら、約千二百万ヘクタールにのぼる農地が必要になる。いま、国内には五百万ヘクタールしかない。自給率一〇〇%はおろか、英国並みへの引き上げも不可能だろう。
自給率の数値を政策の達成目標に掲げることは、およそ現実的ではないのだ。
農業団体の自給率向上論には、過保護農政を守りたいという意図が透けて見える。これも、簡単にうなずけない理由だ。
基礎的な食糧を安定的に供給する仕組みを整えておくのは、国の役割である。たとえば不作による一時的な食糧不足に備えて、備蓄制度は欠かせない。そのための費用負担には、だれも異論はあるまい。
もっと長期的には、食糧の輸出国と良好な関係を保ち続け、常に輸入の道が閉ざされないようにしておくことだ。この姿勢が国全体の安全保障にもつながる。
潜在的な農業生産力を国内に維持していくことが何よりも基本だ。それには、優良な農地を確保しなければならない。
《朝日新聞 1997/11/08より引用》