SFの世界が現実化する? クローン研究、広がる論争
1997年03月12日
英国で昨年夏に生まれた「ドリー」という名の羊が、世界各国でクローン技術の是非をめぐる激しい論争を巻き起こしている。この技術が人間にも応用できる、とみられるからだ。女性が自分の遺伝子だけを持つ子どもを産んで男性不要の世の中になったり、独裁者が自分のコピーのクローン人間をつくったり、といったSFの世界が現実のものになる、との心配も生まれている。クローン羊とは異なるが、牛に広く応用されている手法を用いて、米国でクローン猿が生まれたことも明らかになった。ローマ法王はこうした研究を強く非難し、クリントン米大統領が「クローン人間」誕生につながる研究への連邦予算の提供禁止を決めた。日本でも、科学技術会議が今春から倫理的な問題の本格的な検討を始める。
(上田俊英、大牟田透=科学部)
筑波研究学園都市の一角で、昨年九月に生まれた二頭のクローン牛が元気に育っている。
舞台は農林水産省畜産試験場(茨城県茎崎町)。黒毛和種の受精卵が二十個ほどに分裂した段階で、そのうちの二つの細胞の核をホルスタイン種の未受精卵に移植してつくった、黒毛和種の一卵性双生児だ。
同じ遺伝情報を持つ、こうしたクローン牛は国内だけで、すでに百五十頭以上生まれている。
クローン技術の、動物への応用は第二次大戦後間もなく、盛んになった。ただ、これまでの研究の主流は、受精から間もない細胞や、受精卵が百個前後に増えた段階の「胚(はい)幹細胞」と呼ばれる最初期の細胞を使おうとするものだった。
細胞は皮膚や内臓などそれぞれの組織に分化していく。だが、最初期の細胞ではどの組織にもなりうる「全能性」か、それに近い能力を持っている。クローン動物づくりでは、細胞周期という「時計」の針を逆戻りさせ、目的の細胞に全能性を持たせることが不可欠と考えられてきた。
クローンの牛も猿も、受精直後の細胞を使ってつくられている。
しかし、英ロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士らがつくった「ドリー」は全く異なる。メスの乳腺(にゅうせん)細胞という、完全に分化を終えた普通の体細胞から生まれたからだ。
「とにかく画期的な成果だ。博士らは昨年、わずかに分化を始めた胚の細胞からクローン羊を誕生させたと発表していた。いずれ、体細胞からもつくれると思っていたが……」。双子牛を誕生させた畜産試験場の今井裕・生殖工学研究室長も驚く。
英科学誌ネイチャー(二月二十七日号)に載った研究グループの論文によると、取り出した乳腺細胞は五日間培養し、遺伝情報が詰まった核だけを取り出した。その核を、核を抜いた別のメスの未受精卵に移植。細胞が分裂を始めてから、第三のメス(代理母)の子宮に移し、出産させることに成功した。
この方法だと、子どもは乳腺細胞を提供したメスの遺伝情報しか受け継がず、このメスの完全な「コピー」になる。もし人に応用すれば、ヒトラーだろうと、アインシュタインだろうと、自由にコピーをつくれるわけだ。
クローンの牛や猿の方法はクローン羊と違い、受精卵の細胞を使う。生まれる子どもは両親双方の遺伝情報を受け継ぎ、一卵性の兄弟になる。
○初期化に成功
動物の完全なコピーをつくる試みは、魚やカエルでは成功していた。だが、ほ乳動物の体細胞は分化が進み、全能性を失っているため、培養しても骨なら骨、筋肉なら筋肉にしかならないのが「常識」だった。
ウィルムット博士らは細胞を培養する際、培養に必要な血清濃度を通常の一〇%から〇・五%に下げている。この方法で、もともとの遺伝子の働きを抑える「初期化」に成功し、核に全能性を持たせたようだ。
「受精卵にしかないと考えられてきた全能性が、体細胞の核からも引き出された。全能性という概念そのものを改める必要がでてきた」と今井さん。
クローン動物の研究が急ピッチで進んでいるのは、良質の家畜の増産だけでなく、医薬品の大量生産などにもつながるからだ。
「ドリー」を誕生させた英ロスリン研究所は、遺伝子組み換え羊を扱うベンチャー企業と共同研究していた。羊に人の遺伝子を組み込み、遺伝病の「のう胞性線維症」の治療に使う、特殊な成分を含んだミルクをつくるのが狙いという。
○「生きた工場」
こうした羊がクローン技術で大量生産できれば、羊を医薬品の「生きた工場」にできるわけだ。クローン羊の実験も、この研究の一環とみられている。
米国では遺伝子組み換えブタに血友病の治療に必要なたんぱく質をつくらせる研究も進められている。
米国の科学誌サイエンティフィック・アメリカン一月号に載った報告で、研究グループは「遺伝子組み換え家畜は、注意して管理すれば、工業的につくるより、ずっと高濃度のたんぱく質をつくり出せる」と、その成果を披露した。
「ドリー」の場合、体細胞から取り出した核を初期化して卵細胞に移植したところ、周りの環境にも影響され、受精卵の核と同じ働きをするようになったと考えられる。
国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の中辻憲夫教授(発生工学)は「神経のもとになる細胞を核移植でつくって、これを体内に移植すれば、傷んだり、死んだ神経を再生させられる可能性も出てくる」と話す。
初期化した核の働きが周りの環境で決まるなら、この環境を制御することで、骨や臓器を再生させ、病気の治療などに使うことも夢ではなくなる。
●人への応用に嫌悪感 実験禁止定めた国も
クローン猿の誕生で、一卵性の兄弟なら「人でも多分つくれるようになる」とみる研究者が圧倒的だ。
人の受精卵の細胞でも、うまく分ければ、正常に増殖することは、一九九三年に米国で確かめられている。この研究は「クローン人間」につながるとして、大きな問題になった。
「ドリー」誕生のニュースは欧米では、ヒトラーのクローンと結び付けて報じられた。ドイツの雑誌シュピーゲルでは、この独裁者とアインシュタイン、それに女性モデルのクローン人間が行進する姿が表紙を飾った。
○根底に生命観
「遺伝子組み換えで、病原菌などに強い兵隊をつくる、スポーツのスーパースターを育てるといった悪魔的な連想は可能だ。だが、人への応用は論外。絶対にクローン人間がつくられるようなことがあってはならない」。米ジョージタウン大のローレンス・ガスティン教授はこう断言する。
同大客員教授も務め、欧米の事情に詳しい木村利人・早稲田大教授(生命倫理)は「日本では役立つかどうかで論議されることが多いが、欧米では生命倫理にからむ問題は、最初から善か悪かで論議される。ユダヤ教やキリスト教の伝統で、神に与えられた命を操作することには嫌悪感が強いからだ」と話す。
木村教授や三菱化学生命科学研のぬで島(ぬでしま)次郎^研究員によると、人の受精卵を使った実験などを禁止する法は、英国やドイツ、フランス、デンマークなどで制定されている。国によるが、法に違反すると懲役や禁固、罰金などが科せられる。生命倫理に絡む技術や研究について、長年、専門家と市民の間で議論が続いてきた成果だ。
○科技庁も指針
しかし、「残念ながら、日本では議論の蓄積がない」と、生物学者で生命誌研究館の中村桂子副館長は話す。「専門家と市民が一緒になって生命倫理を考えるシステムをつくらないままできた」ツケといえる。文相の諮問機関、学術審議会が、人の細胞を使ったクローン研究への助成を凍結する方針を決めたのも、欧米の動きを見てからだ。
こうした中で、科学技術庁がクローン研究のあり方について本格的検討を始めた。首相の諮問機関である科学技術会議のライフサイエンス部会(部会長、森亘・元東大学長)に検討をゆだね、部会はその結果を今夏に出るライフサイエンスに関する研究開発基本計画の答申に盛り込む予定だ。
この答申を受けて、科技庁は厚生省や農水省などと協議し、クローン研究の指針つくりに取り組みたい考えだ。
【写真説明】
クローン技術で生まれた黒毛和種の一卵性の2頭。後ろのホルスタインが「代理母」のうちの1頭だ=農水省畜産試験場で
《朝日新聞 1997/03/12より引用》