(プロメテウスの罠)いのちの記録:12 「ダメだ。白旗だ」
2013年04月06日
2011年5月以降、富岡町の獣医師、渡辺正道は、原発関係者や国会議員と一緒に警戒区域へたびたび入っていた。
牛舎ではたくさんの牛の死体を見た。腐臭が充満し、ウジがわき、ハエが飛ぶ。そんな光景を前にしながら、不思議と心は動かなかった。
死ねば、苦しみはそこで終わる。
むしろ心が痛んだのは、悠々と草をはみながら、これから殺処分されようとしている牛たちだった。
被曝(ひばく)したからといって殺されなければならない理由があるとは思えなかった。俺たちはじきに富岡へ戻る。親牛は無理でも、子牛ならいつか出荷できるかもしれない。そうやって復興していくんだ。復興のためにも牛を殺してはだめだ。
渡辺は知り合いの畜産農家に電話をかけ、時には農家の避難先に足を延ばし、「殺処分に同意しないで」と説いて回った。
富岡町の畜産農家、田代安明(たしろやすあき)(59)も渡辺の話す通りだと思った。
田代は福島第一原発で働きながら、妻と一緒に牛を育てていた。12頭の親牛に名前をつけ、毎日頭をさすってかわいがってきた。
「仕事の道具」ではあるが、愛情をかけて10年以上も育てる意味ではペットと同じだ。「殺せ」と国に命じられても、納得できなかった。
しかし、一時帰宅のバスの中で聞いてしまう。
「うちのみそ蔵、牛に随分やられちゃった」
「うちは植木がダメになったよ」
そもそもの原因を作ったのは原発事故だが、放れ牛が被害をまき散らしている現実に打ちのめされた。
その後、役場にも牛についての苦情が来ていることや、「畜産農家に賠償してもらうか」との声もあるとうわさで聞いた。
「牛を殺すなという思いが、復興を妨げてしまうのか」
悩んだ末、田代は渡辺に電話をかけた。
「先生、もうダメだ。白旗だ」
田代は牛の改良に人一倍熱心で、その姿勢は仲間に刺激を与えていた。牛に真剣に向き合ってきた田代が出した結論が殺処分というなら、尊重するしかない。
7月29日。渡辺は日記帳に「白旗」と書き込んだ。
被曝した牛を殺さずに集め、体内の放射性物質を研究しようとする研究者や牧場関係者の動きもあった。だが、渡辺自身はそんな活動から遠ざかっていった。(机美鈴)
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【プロメテウス】人類に火を与えたギリシャ神話の神族
【写真説明】
民家に入り込んだ牛
《朝日新聞社asahi.com 2013年04月06日より引用》